初めて聴いたとき「こんな声だっけ?」と思った。
朴訥としていながら、ほのかな甘さを含んだ歌声。
聴き手を囲んでいくような。
掴もうとするとすり抜けていくような。
とにかくこれは、確かな感触をしていない。
曖昧さを曖昧なまま残しておく。
まるでシンガー然とした佇まいと歌の存在感は、普段のままであり、同時にギャップも感じる。
技術的には卓越した歌唱ではない。
しかし、非常に細かくコードが移り変わるメロディにとって。
おぼろげな情景を描いた歌詞にとって。
これ以上の歌い手はいないだろう。
あらかじめ、この声でこのピッチ感で空気を震わすことが決まっていた、とすら言ってしまおう。
歌と作家性の蜜月な関係に、壱タカシはソウルシンガーだとも思う。
前の2曲を振り返ると、どちらも探しものをしていた。
それは、"記憶の"ということ。
思い出せそうで思い出せない、忘れられない光景。
静と動で曲の触れ幅は大きかったが、どちらでも探しものは見つからなかった。
確かにあったということだけよみがえった。
これは曖昧さの肯定である。
新曲はダブステップで再解釈されたAOR、といった複雑な曲なのだが、おどろくほど耳馴染みがいい。
「はなむけ」でのストイックな弛緩でも。
「気体」でのオプティミスティックな弛緩でもなく。
彼が慣れ親しんでいるリズムで、改めて馴染みの人たちに自己紹介をするような趣き。
3曲のなかではトラックがもっとも自然で、歌入れがもっとも難航したのではないか。
誰かの記憶のなかで浮かび上がる"個人的な歌"は、けっして限定された言葉を使っていない。
かんたんな言葉で、ありきたりな描写をしている。
だからこそ、それぞれ違った意味を持ち、歌が残り続けていく。
この「対岸」も一見すると、恋人が道を挟んだ向こう側にいるという、ありふれた歌に聴こえる。
また、ふとした瞬間には、もう会えなくなってしまった人へ願いを寄せる歌にも聴こえる。
ラブソングにも死生を見守る音楽にもなる。
探しものはきっと見つからない。
でも、「応えはいつかきっとわかる」
"こたえ"を"答え"ではなく"応え"にした繊細な配慮に、息を飲む。
もうマジョリティとかマイノリティとか、どうでもいいんじゃない?
どこかで膝を抱えている人へ、きちんと応えたクィアな視点が、ここにはある。
彼はどうして歌わなくてはいけないんだろう?
それは強い曖昧さを持ったものだから、憶測はしないほうがいい。
ただ、壱タカシはあなたに歌うしかなかったのだ。
美馬渡
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